このページでは日本の探偵業界が歴史の中でどのように勃興し、今日に至ったかを概観します。
明治から令和まで5分の旅です。
日本の探偵業の夜明けは明治時代に遡ります。
ルーツは2つあって、それは探偵社と興信所です。
今日では両者はほぼ同義語になっていますが、元々は別のものでした。
日本の探偵業の歴史は明治時代に始まります。
明治28年(1895年)に東京できた岩井三郎探偵事務所です。
敏腕刑事で鳴らした岩井氏が30歳の時に退官して、「日本にも私立探偵を!」という志を立てて創業しました。
今日の探偵社のように浮気調査ばかりでなく、新聞記事になるような事件がらみの調査もやっていました。
岩井三郎事務所は、明治・大正・昭和と続き、太平洋戦争中に空襲でいったん閉鎖するも戦後に再興し、3代続きます。
ちなみに初代のもとでは、男尊女卑の激しかった時代に日本初の女性探偵・天野光子、2人目の芹沢雅子を輩出しています。
この経緯は、ノンフィクション作家・林えり子氏の「女探偵物語ー芹沢雅子事件簿」でも裏付けられます。
芹沢雅子本人への取材に基づいているので、内容は確かだと思います。
残念ながら廃刊で入手困難、中古本は高騰しています。
記録には残っていませんが、岩井三郎事務所で育てられた後に独立し、探偵業を広めた人もたくさんいるはずです。
三代目の 故 坪山晃三氏については、そのような人を育てた証拠も残っています。
この方は自衛隊で三等陸佐として情報活動に従事した後、退官して探偵業を興し、三代目を襲名しました。
その後、岩井三郎事務所はこの方が代表を務める(株)ミリオン資料サービスに吸収され、現在に至ります。
なお、同社は法人情報では存続していますが、以前あったホームページがなくなっています。
坪山晃三の名を検索すると現存の複数の探偵社のプロフィールに、存命中は顧問だった等の形で出てきます。
(検索結果は2023年5月現在)
であれば、探偵業の草分け期に活躍した有名な初代は、より多くの後進を育てたはずです。
もう一つのルーツ、興信所は企業の信用調査機関で、今日の帝国データバンクのような存在でした。
江戸時代までは商工業の発展は緩やかで、どこが信用ある老舗でどこがそうでないかは調べるまでもなく明らかでした。
しかし、明治維新以降、会社がたくさんできてくると、融資や取引の上で相手の信用情報がないために困る場面が増えてきました。
そこで作られたのが興信所というわけです。
明治25年(1892年)、大阪にできた商業興信所が日本初の興信所です。
設立の音頭を取ったのは、外山脩造(とやましゅうぞう)という新潟出身の人物。
日銀の初代大阪支店長を務め、後に阪神電鉄の初代社長になった関西財界の大物です。
欧米の経済視察に行った後に信用調査機関の必要性を痛感し、興信所設立に汗を流しました。
商業興信所は日銀と関西の銀行30行がバックになって設立されました。
この動きには日本の資本主義の父・渋沢栄一も関与。
明治29年(1896年)には東京興信所が作られますが、そこでは渋沢がリーダーシップを執りました。
明治の財界の大物たちが設立した産業振興のための機関が、いったいなぜ探偵業と関係するようになったのか?
それは後で話します。
この2つの興信所は昭和19年(1944年)に統合されて東亜興信所となりました。
戦後、東亜興信所は調査業を廃業してビジネスホテル業に転じ、社名変更と買収を経て、ホテルは今も存続しています。
この数奇な歴史は、現存ホテルチェーンの社史に刻まれています。
以上は官公的色彩の強い興信所ですが、民間の興信所も明治時代に生まれています。
明治33年(1900年)に、後藤武夫が創業した帝国興信所です。
(正確には帝国興信社で、2年後の法人成りの際に帝国興信所に改名)
日露戦争後の企業設立ブームでチャンスをつかみ、全国54拠点、国内トップの興信所に成長します。
戦後はいちはやくコンピュータ管理を取り入れ、体質の古い中小他社を尻目に近代的企業になっていきます。
1981年には帝国データバンクに社名変更し、個人調査から全面撤退して企業信用調査専業になります。
企業の信用調査機関としてスタートした興信所は、個人の調査にも手を染めるようになります。
昭和以前は採用予定者の身元調査をするのは普通のことでした。
だからそれを興信所が受注するのは自然な流れです。
そこから身元調査に類する結婚相手の調査に拡大するのも自然な流れでしょう。
こうした動きにより、一般人のイメージでは探偵社と興信所の境目があいまいになっていきました。
平成の頃には、帝国データバンクのような企業信用調査業は興信所とは呼ばれなくなっていました。
それもあって、平成の時代には探偵社=興信所と、同義語になっていたと言えます。
そして令和の現代には、興信所は死語になりつつあるような気がします。
先述の林えり子著「女探偵物語・芹沢雅子事件簿」の中で、終戦直後に特高崩れや大陸帰りの軍事探偵崩れなどが低レベルな探偵業を開業する例が多かったと書いています。
ベテラン探偵・小原誠氏は著書の中で、昭和40年代から「調査会社」という呼称が増えたと書いています。
ともかく戦後の探偵業界は新規参入と廃業を繰り返しながら継続し、探偵社と興信所はいつの間にか同義語になっていました。
そういう中で、平成になって古参の興信所2社が個人調査から完全撤退します。
東亜興信所は平成4年(1978年)に(株)サン・トーアに社名変更して、小さなビジネスホテルの運営会社になりました。
このホテルが他社の買収を受けた後も存続していることは既に述べたとおりです。
帝国興信所は1981年に帝国データバンクに社名変更し、企業信用調査専業になりました。
創業の原点に帰ったと言えます。
この2社が個人調査をやめた理由はつかんでいません。
しかし、おそらく個人調査と関わり続けることによる企業イメージの悪化懸念もあったのではないかと推定します。
昭和後期から平成にかけて、探偵=興信所は怖い物というイメージが広がっていました。
明治に始まった日本の探偵業界ですが、平成に至るまで何らの法規制も受けずに推移していました。
しかし、平成期に探偵業界は膨張し、悪徳探偵が増えて深刻な社会問題になっていきました。
これを正すために、国会議員主導で2006年(平成18年)に探偵業法が成立しました。
リーダーシップを執ったのは、のちに法務大臣にもなった葉梨康弘衆議院議員です。
葉梨康弘著「探偵業法」には立法の経緯や各条の意図が詳しく述べられています。
残念ながら廃刊になっており、中古本は高騰しています。
これにより、下記をはじめとする基本的な倫理ルールが定められました。
探偵業法に先立ち、2003年(平成15年)に成立していた個人情報保護法も探偵業界の改善に寄与しました。
例えば正当な理由のない第三者の戸籍情報取得が禁止され、差別につながる調査はできなくなりました。
こうした法の整備に伴い、極端な悪徳業者は淘汰されていきました。
このように探偵業法は、悪徳探偵の被害を防ぐ法律です。
消費者(依頼者)の利益と調査される側の人権の保護を目的としています。
探偵に捜査権などの特権を付与する条項は一切含まれていません。
探偵業法ができて15年以上経ちました。
その間に調査サービスは以前とは比較にならないくらい安全になりました。
今では無届の違法業者に関わらない限り、悪質な被害に遭うことは珍しくなっています。
しかし、調査結果のレベルの低さに失望することはまだまだ多いようで、業者選定には注意が求められます。
警察資料によると探偵業の届け出数は約6.,600社に及びます。
この中には届出だけして実働していないペーパーカンパニーや、臨時稼働のみの業者も含まれています。
株式会社などの法人格を持つものは1/3で、残りは個人事業主です。
法人も1人社長や数名の零細企業が多くを占めます。
新規参入と廃業が毎年繰り返され、まさに零細中心の乱戦業界といえます。
数少ない大手が莫大な広告費を使って集客し、業界を牛耳る状態が長く続いてきました。
しかし、3年も続いたコロナパンデミックの後は変化の兆しも見られます。
コロナ自粛期は浮気調査も家出人捜索も結婚調査も、探偵のすべての仕事が激減しました。
年を追うごとにそれはひどくなり、リストラの嵐が吹き荒れました。
大手をスピンアウトしたベテランが業界変革を志して新しい探偵社を立ち上げる例も見られます。
彼らは良質なサービスをリーズナブルに提供して、グレーな業界イメージを変えたいという理想を抱いています。
今後の動向に注意し、このサイトを随時更新していきたいと思っています。
アメリカで最初の探偵社ができたのは日本の岩井三郎事務所より50年くらい前のこと。
アラン・ピンカートンが創立したピンカートン探偵社がそれです。
列車強盗を逮捕したりする一方で、資本家の手先になって労働組合潰しもたくさん行いました。
やっていたことは探偵のイメージとはかなり異なり、警察、私兵、スパイのようで、特に現在の日本の探偵とは全く異なります。
非常に恐れられ、嫌われた存在で、映画を通じて世界中にも知られていました。
この探偵社について短くまとめた記事があります。
お楽しみください。